507 パリに生きる彼女たち 春編

春の日の午後、夕方と言うには少し早い時間だった。
僕はパリの右岸、オペラ キャトル セプタンブル(Opera 4 Septembre)の停留所から21番のバスに乗り、左岸にある自宅へと向っていた。

バスの中は思いのほか空いていて、空席があちらこちらにあった。
しかし、僕を含めた数人が、座らずに立ったままだった。

21番のバスは、サン ラザール駅(Gare Saint Lazare)を出発すると、オペラやパレ ロワイヤル、シテ島やリュクサンブールなどを通って、終点のポルト ド ジャンティイ(Porte de Gentilly)まで走る。
地図で言えば、パリの街を左上から右下まで(北西から南東まで)、斜めに横断するようなルートだ。

バスが、ピラミッド(Pyramides)の停留所に近づいた時のこと、停留所のベンチに1人の女性が座っているのが見えた。
彼女はシンプルな白いシャツを着て、グレイのタイトスカートを履いていた。
そして、両足を揃えて前に出し、頭を下げて本を読んでいた。

その様子を見たバスの運転手は、ゆっくりと速度を落としながら、ごく短くチャイムを鳴らした。
パリのバスには、危険を知らせるクラクションとは別に、周囲の人に注意を促すためのチャイムが付いている。
これはクラクションの大きな音に比べてずっと穏やかであり、人に不快感を与えない。

ベンチに座っていた彼女は、チャイムの音に気づき、顔を上げた。
そして、走ってきたバスの車体に書かれた路線番号を見て、自分が乗る路線のバスではないことを確認すると軽く首を振り、「私はそのバスには乗りません」という意思表示を行った。

しかし次の瞬間、バスの運転手は彼女に向って、「そんなこと言わないで、このバスに乗りなよ!」とでも言いたげに、無言のまま、大袈裟に、ジェスチャーを行った。

それを見た彼女は、満面の笑みを浮かべながら、小さく手を振ってみせた。

そしてバスはふたたび速度を上げ、オペラ通り(Avenue del'Opera)を南へと走って行った。

以上のような光景を、僕はバスの窓越しと、運転席の斜め前に付いた大きなバックミラーとを通して見た。
そして思わず、僕も満面の笑みになった(同じ男として、この運転手さん、なかなかやるな~という感じ!)。