018 ジベルニー
Copyright:坂田 正次
モネがノルマンディーのセーヌ河畔のジベルニーに居を移したのは1893年のことです。
それより以前の1876年に、実業家で美術コレクターのエルネスト オシュデと出会い、モネの作品の価値を認めたオシュデによってモネの作品は買い上げられ、困窮つづきのモネの生活は楽になっていました。
しかし、オシュデの事業はうまく行かず破産してしまいます。
モネは、一時期オシュデの家に滞在して絵を描いていたほど親密な関係にあったことから、破産後にベルギーへと失踪してしまったオシュデ本人が残した妻のアリスと6人の子供の面倒をみることになったのです。
債権者から逃れるようにして住いを転々とした後、モネは自分の2人の子供とアリスの6人の子供の教育のことも考えて1883年にジベルニーに家を借りました。
1889年にロダンとの合同展で成功し、イギリスで知り合ったデュラン リュエルの援助もあって、絵が売れるようになり、経済的に安定した1890年に家を買い取っています。
1879年にカミーユが亡くなり、1891年のオシュデの死後の1892年に、モネとオシュデの妻アリスは結婚します。
モネのジベルニーでの生活は10人の大所帯になっていました。
けれども、経済的に余裕のある生活のもとでモネの名作がジベルニーから生まれてゆきました。
ジベルニーはセーヌの支流のエプト川が本流に流れ込むところにあります。
そこに舟を浮かべて遊ぶ子供達をモネは描きます。
日本の国立西洋美術館にある「舟遊び」の純白のドレスで、陽光溢れる川に遊ぶ2人の女性は、アリスとオシュデと間に生まれたシュザンヌとブランシュです。
この作品は、舟の半分だけを画面に取り入れるという大胆な構図にしていますが、この手法が日本の浮世絵の影響であることは、当時の人々にもよく知られていました。
今回の挿し絵には別の「ジベルニーでの舟遊び」を紹介します。
水と水辺の風景の中で育ったモネにとって、ジベルニーは天国のような場所でした。
モネは書いています。
「私は大きな喜びに酔っている。ジベルニーは私にとって最高の場所だ」
印象派の巨匠となったクロード モネがその半生を過ごし、「睡蓮」など多くの名作を生み出した舞台がジベルニーです。
1893年頃から始められた庭園づくりは、日本から取り寄せた桜、紅葉、牡丹などの花を庭に咲かせました。
そして、美食を楽しみ、数々の大作を生み出す創作活動を続けたのです。
ジベルニーでの舟遊び モネ