005 オンフルールのセーヌ河口
Copyright:坂田 正次
モネが初めてサロンに作品を送り出したのは、1865年のことです。
サロンは当時のフランス画壇の最高権威であり、正式名称はサロン デ アルティストで国が主催していた美術展覧会のことです。
この18~19世紀のフランスで主流をなしていたサロンに作品を出品することにより、プロフェッショナルの画家としてのモネを世に知らしめたのです。
モネがサロンに出品した2点の作品「オンフルールのセーヌの河口」と「干潮のラ エーヴ岬」はともに入選しました。
しかし、この2つの絵はモネが本当に描きたかったものではなかったようです。
サロン好みの海景のテーマと伝統的な構図、抑制された色調としたことからサロンに入選できたのでした。
当時の評論家達は、モネのダイナミックな見識と、調和のとれた色彩、絵画全体の質の高さを賞賛し好意的に迎え入れました。
「干潮のラ エーヴ岬」のほうは画商が300フランで購入しています。
モネが本格的に描いた絵が売れたのがこのときでした。
1865年のサロンの展示はアルファベット順に展示され、入選したモネの2作品の間にはこの年のサロンでもっとも悪評が高くスキャンダラスな作品の、マネの「オランピア」が飾られました。
新たな画風への挑戦をしていたマネは同時代の作家のデュマ フィスの椿姫に登場する娼婦の名前を画題とし、それまでのビーナスのような空想的な裸婦ではなく、実際にいるパリの娼婦の様子をリアルに描いたのです。
サロンでお互いの絵画が並んだことがモネとマネを知り合わせ、親しくなるきっかけとなりました。
2人はキャフェ ゲルボワでの画家仲間たちの集りの中で親交を深めています。
このキャフェでは新しい絵画芸術のあり方が盛んに議論され、それが印象派絵画誕生の1つの要因になったようです。
そして、マネとその作品に接することにより、サロン好みの伝統的な作品ではない自分が描きたいと思っていた作品づくりをして行きました。
マネのこれも1863年にスキャンダルとなった「草上の昼食」に習う形でモネ自身も1866年に「草上の昼食」を描き、そして1867年にはモネが本当に描きたいと思い、モネらしさが表れている戸外の光の中に人物を描いた作品「庭の女たち」をサロンに提出することになるのです。
オンフルールのセーヌの河口 モネ