フランス人女性の物語 春編

238 5月、良く晴れた日の午後

バスはゆっくりと、サンミッシェル通りの坂道を上っていた。
もうすぐ、バスの終点、リュクサンブールだ。
5月の初め、良く晴れた日の午後、パリの空にはところどころ、白い雲が浮かんでいた。

パスの乗客は、ほんの少しだった。
僕が座っている席の、通路を挟んだ反対側に、女性が1人、座っていた。
失礼かも知れないが、その女性は、お婆さんと呼ぶのが正しい、と僕は思った。
美しい白髪には緩やかにカールがかかり、ベージュのジャケットとともに、とても良く似合っていた。
バスが走っている間、お婆さんは静かに座っていた。
そしてどこを見るでもなく、前の方を向いていた。

しばらくしてバスは、大きな書店の前の信号で停まった。
お婆さんはその時、膝の上に抱えていたバッグの中から、何かを取り出した。
そして、一旦持ちかえた後、静かにそれを口元に運んだ。

僕は最初、それが何なのか、判らなかった。
しかし次の瞬間、僕は少なからず、驚いた。
それは、口紅だった。
お婆さんは少しだけ口を開き、口紅を塗ったのだ。
言われなければ判らないほどに少しだったが、それは、オレンジ色が少し溶け込んだ、鮮やかな赤だった。

終点から1つ手前のバス停でバスが停まり、中央にある降車口から、お婆さんはバスを降りた。
歩道に立つお婆さんの姿は、僕が思っていた以上に小柄だった。
そして、バスが進むのと同じ方向に、お婆さんは歩き始めた。

バスはゆっくりと、サンミッシェル通りの坂道を上っていた。
もうすぐ、バスの終点、リュクサンブールだ。
5月の初め、良く晴れた日の午後、お婆さんには明るい春の日差しがあたっていた。

バスがお婆さんの横を走り過ぎる時、僕はもう1度、彼女を見た。
そして、若い頃には相当の美人であったに違いないと確信し、何だか急に、嬉しくなった。